SRVの墓を訪ねて
1990年8月26日、ブルースフェスティヴァルが開催されたウィスコンシン州イースト・トロイのアルパイン・ヴァレー・ミュージック・シアター。日付が変わる頃、ステージ上のエリック・クラプトンは、先に演奏を終えていた4人のギタリストを呼び、スティーヴィー・レイ・ヴォーン、彼の兄ジミー・ヴォーン、バディ・ガイ、ロバート・クレイもステージに上がる。5人のギタリストによる「スウィート・ホーム・シカゴ」の演奏は20分間に及んだ
終演後、会場から160キロ離れたシカゴのホテルまでスティーヴィーはバスで帰る予定だったが、会場に待機していたヘリコプターに空席が1つあることを知った彼は、そこに乗り込む。4機のヘリが飛び立って数分後、彼の乗った1機は丘の斜面に高速で激突し、乗っていた全員が死亡。スウィート・シカゴに彼が生きて帰ることはなかった。
部分的に霧のたちこめる山がちな地形の中で、低空飛行をしたことが事故の原因、と国家運輸安全委員会は事故報告書の中で結論付けている。同機に乗っていたのがクラプトンの関係者やスティーヴィーだったことから、検死の本人確認にはクラプトンとジミーも呼ばれたという。兄弟初の合作アルバムである「ファミリー・スタイル」の発表を数週間後に控えていたジミー。まだ若干35歳だった弟の遺体を目の当たりにするのは大変辛かったことだろう。
スティーヴィーは、影響を受けたギタリストとして常に兄の名を挙げていた。
1954年10月3日にテキサス州ダラスで生まれたスティーヴィー・レイ・ヴォーンは、7歳でギターを始める。兄のレッスンでめきめきと上達し、13歳の頃には地元のクラブに出演していたという。彼は音楽に専念するため、高校を中退してオースティンに移る。1979年頃、彼の参加していたバンドであるトリプル・スレットのヴォーカリストが脱退したのを機にスティーヴィーは歌い始め、バンドはダブル・トラブルと名前を変える。
スティーヴィーは、1970年代後半には既にテキサスでは有名な存在だったが、ダブル・トラブルの「世界デビュー」と呼べるのは、1982年のモントルー・ジャズ・フェスティバルだ。同年、彼らに注目したジャクソン・ブラウンのスタジオでバンドはレコーディングを行い、翌年「テキサス・フラッド」を発表。同アルバムに収録された「プライド・アンド・ジョイ」がヒットする。
スティーヴィーが存命中に発表したスタジオアルバムは4枚だが、多数のツアーやコンサートへのゲスト出演など、精力的に演奏活動を行った。1985年1月には来日し、大阪、名古屋、東京でも公演を行っている。アルバムのセールスやツアーの成功などの裏で、彼はアルコールとコカインの中毒といった問題も抱えていた。だが、1986年ヨーロッパツアー直後にリハビリを行って以来、晩年の4年間はカフェインの入ったお茶すら呑まなかったと、彼の友人は語っている。
バディ・ガイはステーヴィーの最後のステージについて、「彼のベストコンサートの1つだ。観ていて鳥肌が立ったよ」と後に回想している。
彼の葬儀は故郷ダラスで行われ、郊外の巨大な墓地ローレル・ランド・メモリアル・パークに埋葬された。ダラス中心部から同墓地までは遠くない。私は、「ライヴ・アット・カーネギーホール」を再生し、13曲目の「レニー」が流れてくる前に墓地に着いた。現在の墓碑は大きく、簡単に見つかるが、これは彼が埋葬された当時からあったものではない。最初の小さな墓碑は盗まれてしまったという。
お供えものを用意していなかった私が、車のトランクをあさって出てきたのは、フェンダー社のシールド。私の使ったシールドをスティーヴィーが欲しがるとは思えないが、彼の愛用していたギター「ナンバー・ワン」も「レニー」も同社製だったし、、、と半ば無理矢理関連付けてお供えする。私が常に持ち歩いていたギターピックもお供えすることにした。このピック、スティーヴィーが最後のステージを共にしたバディ・ガイから数年前に私がいただいたものだ。
彼は喜んでくれるだろうかと疑問に思いながら、スティーヴィーに合掌。